鎌倉街道について(別ページ)

●歴史上の幹線道路

 私たちは今では考古学上の発掘調査の結果から、縄文時代のアスファルト舗装道路以来、幹線道路が時代ごとに何度も整備され、またこれらが陸上交通以外にも別の役割を担っていたことを知っています。
 例えば律令時代の道路が各地の条里制の地割の測量基線であったり、江戸時代の五街道(東海道、中山道、日光道中、奥州道中、甲州道中)が外様大名の多い京都以西にはわざと存在せず、京都朝廷や加賀藩(120万石・1位)、仙台藩(62万石・3位)などの監視や江戸の防衛を目的としているため、沿線がほとんど幕府の天領か親藩・譜代大名で占められていたり、「いざ鎌倉」の鎌倉街道が、側溝が何度も引きなおされている痕跡から荘などの境界線として道路で筆界を確定させていたことなどが指摘されています。
 このように全国の幹線道路は時代ごとに異なった役割をになって各地の拠点を結んできました。

鎌倉街道とはどのような道なのか

 「鎌倉街道(鎌倉往還)」は現在でも鎌倉市内をはじめとして全国各地に道路遺構があり、かつ伝鎌倉街道の遺称地も数多く存在します。かつて鎌倉街道の伝承の研究に着手した民俗学の泰斗「柳田国男」は、その伝承が全国各地にあまりにも多く、地図が鎌倉街道だらけになってしまい途中で匙を投げたといわれています。これは近代以降の私たちの「街道」や「幹線道路」に関する常識が「鎌倉古道」には通用しないことをよく表しています。

鎌倉街道(鎌倉往還)」は現在の国道のように中央政府(鎌倉幕府)によって整備された規格統一道路でもなければ、鎌倉を中心として全国に放射状に伸びた画一的な道路でもありません。たしかに源頼朝は鎌倉を京に模すために若宮大路小町大路など鎌倉市の六大路を造ったり、あるいは東海道の駅制を整備して京都鎌倉間の所用時間を10日から3日に短縮するなど積極的な道路改変を行いました。また第3代執権北条泰時は鎌倉の出入口となる鎌倉七口(鎌倉七切通し)を整備しました。
 しかし各地に残る発掘された鎌倉街道の道路遺構は、道幅や曲がりくねり、舗装状況など道路の形態がバラバラで、さらにある地点と別の地点を結ぶ同じような道が2つも3つも同時に存在し、それらが全て鎌倉道などと呼ばれたことなどが調査により明らかになってきています。
 それらの理由は、実際にその道路整備を担ったのが鎌倉から補任(ぶにん)された地頭や在地の荘園領主や寺社であったと推定されることや、江戸時代に武家統治による長期の国内平和が確立されて最初の武家政治である源氏や鎌倉に再び焦点が集まったため、鎌倉が再び脚光を浴びたことで各地で地元の古道を鎌倉往還に関連づけて呼ぶようになったこと、あるいは五街道の整備等に関連して新道路が整備された地域で急速に使われなくなった古道が昔の道路のイメージで鎌倉街道と呼ばれるようになったことなどがあげられています。

 このように今まで漫然と信じられてきた「鎌倉街道とは幹線道路(上道、中道、下道、京鎌倉往還、御坂路など)とその支線(脇往還)によってつくられる樹形のような政治・軍事道路網」という常識は、90年代以降の発掘の事実ともはや整合性が保てなくなりました。結局「鎌倉街道」とは、それぞれの地元でその必要性から長期にわたって廃れることなく使用され続けた短い生活道路を次々に繋いで遠くの目的地まで行くことができた道筋を「鎌倉道」と称したもの、というのが最も真相に近いと考えられます。

●武蔵国内の鎌倉街道

 鎌倉街道に限らず、古道は自然災害や人為的理由により経路が変更されたり廃れることがよく起きています。富士山の延暦噴火による東海道相模国足柄路筥荷(箱根)路への一時付替えと一年後の回復(『日本紀略』)や武蔵国を東山道から東海道へ移管することに伴う東山道武蔵路の官道からの格下げ(『続日本紀』)と沿線の過疎化(『新編武蔵風土記稿』榛沢郡)や廃道化などはよく知られています。もっとも多かったのは河川の氾濫による道の付替えと想像されますが、神社や寺院の洪水による社殿流失や場所移動の記録と異なって、道や街道の架けかえ記録が沿線で残されていることはほとんどありません。
 武蔵国を通る鎌倉街道の幹線と呼ばれるものには、鎌倉から武蔵国府上野国府を結びさらに信濃路を京都方面に向かう上道(かみつみち)、鎌倉から下野国府を結び白河関を超えて陸奥方面に向かう中道(なかつみち)、鎌倉から常陸国府を結び勿来関(なこそのせき)を超えて同じく陸奥方面に向かう下道(しもつみち)、武蔵国府中より甲斐国府を結び籠坂峠から東海道経由で京都方面に向かう御坂路があります。
 埼玉県では文化庁の「歴史の道調査事業」の補助を受けて昭和56年(1981年)に一ヶ月の期間で「県内鎌倉街道伝承地所在確認調査」を行い、その報告書を出版しました。それによると県内では各地の伝承とそれまでの研究により想定されてきた「鎌倉街道」の道筋はほぼ一致することが明らかになっています。もっともこのような調査は義務教育の普及した明治より前に行わなければ正確な伝承の実態を明らかにしたとは言えず、活字にされた記事によってそれまでの伝承の記憶が異なる風に上書きされてしまった場合や、それまでの戦乱や伝染病等で伝承そのものが潰えてしまった場合を排除できないので、この調査をもって鎌倉街道筋が明確に確定したとは言えないのが残念なところです。

(続く)

●辻地区近辺の河川の流路と自然堤防


●辻地区近辺の伝鎌倉街道